つれづれなるままに

知らねえよって言われちゃうかもしれないけど、私ってスパ銭が好きじゃないですか?

露天休憩サウナ水風呂休憩サウナ水風呂休憩炭酸泉休憩漢方釜…


週1回のルーティーンである。


スパ銭の効能は絶大。

普段は骨のように固い私の首筋も揉める程度になる。毒素はともかく邪気に対するデトックス効果と、リラクゼーション効果はかなりのものであろう。とにかく神経が安らぎ気が整う。


だが、サウナで体が解放されていくのと反比例して脳は活発になってくる。



ある日には、将来のことに思いを巡らせ活力が湧いてくる。

「芸術は爆発だ」

岡本太郎が言ったように、情熱を燃やして生きていこうと決心する。



別の日、生きることの無意味さを思う。

「芸術は爆発だ」

そんなことを真顔で言えてしまうのは、命を賭して自分と闘える天才なのだろう。しかしそれだけのことだ。闘いの末に死ぬのであれば、命を賭けた価値はどこに表れるのか。私が死んだ後にこの世界が存在している保証は無いにもかかわらず、闘えと語りかけてくる。だから自己啓発本は嫌いだ。


生きる意味など分からずとも人間は生活しているが、それは能動ではなく本能によるものだ。人間が飼育ケースの蟻を観察するように、神が地球の人間を観察している。蟻でなければドラクエの勇者といったところか。予め決められたプログラムの中、食べるために働くしかない。(定職に就いたことはないが。)神から逃れるには死ぬよりほかはないが、プログラムがそれを許さない。本能のスイッチを切り積極的に死を選択できれば、一切合切から解放されるというのに。


神がプレイに飽きてしまえば人間なんて即棺桶だ。神とまでは言わずとも、太陽が寿命を迎えれば、権力者が核のボタンを押せば、交通事故に遭えば、人間の命なんて容易く吹き飛ぶ。それでも生きることに、ましてや命を賭して闘うことに意味はあるのか。


そもそも爆発にベットされる命に、本当に自我は宿っているのであろうか。万物は素粒子の集合体でしかない。人と物、人と人の境界なんて曖昧で、あらゆるものは混ざり合う確率がゼロではない。何が私を私たらしめ、こんな無意味なことを考えさせるのか。宇宙とは一つの生命体であり、自分とは一細胞に過ぎないかもしれない。“無限月読”とか“STAND ALONE COMPLEX”の作者たちもこんなことを考えただろうか。


ナゼー ナゼー



こうしてルーティーンを完了し、スマホを見るとき。

十数日ぶりにこのちゃんからのメッセージとブログ更新の通知があり、それが無事に退院したという報告であれば。これこそが生きる意味であり、直前まで考えていたことは瞬く間にどうでもよくなった。

― 君がしあわせならば そう僕もしあわせな気がする

まさに「JOYFUL LOVE」、なればこそ私も命を賭して人生を爆発させてみようと思える。



本能などではなく、愛や友情こそが世界と自分を繋ぎ続ける絆でありますように。

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