犯罪心理

1. 概要

 当記事は、卒業論文に憧れを抱く筆者(以下、私)が通常とはテイストを変更して論文調に書いたものである。テーマは『犯罪心理』とした。犯罪心理について「性善説」と「運命」を軸に、記事作成時における私の見解を記述した。ここで、ポイントは“私の見解”という部分にある。当記事には仮説や検証は含まれず、客観的事実に基づく学術的要素は存在しない。あくまでも通常とはテイストが異なるだけであり、内容は主観によって書かれている。要するに、やってみたかっただけ。そして、このテーマを通じて得た最大の収穫は、常日頃から心身の状態を把握することの重要性を確認できた点にある。
 なお、犯罪心理とテーマを設定するにあたり、「福島章『犯罪心理学入門』(中公新書)」を読了した。また、ここに示す犯罪心理についての見解は私的な趣味の範疇であり、犯罪心理学を否定したり犯罪を肯定するものではない。

2. 背景

 当記事の作成に至った背景には、私がギャンブル依存症であり実際に犯罪を引き起こしたという事実がある。(参考記事: https://hinatanideyo.com/embezzlement/ )自身の犯罪行為に原因と呼べるものがあるとすれば、それはギャンブル依存症という病気であると思うことがあった。これが犯罪心理について考えるようになったきっかけである。
 そこに、元来から私が信じている「性善説」と、ギャンブル依存症の入院治療を契機に考えるようになった生育歴・環境といった「運命」的な要素を絡めて、犯罪心理について私なりの見解を構築してみた。
 また、当記事で論文“調”の形式を採用した理由としては、時季的な卒業論文への憧れがあった。 (参考記事: https://hinatanideyo.com/longing/

3. 見解

 犯罪心理に対する私の見解は3つの要素から構成している。まずは(1)「性善説」、次に(2)「運命」、そして(3)「刑法」である。以下に大まかなフローを示す。

(1)人は基本的に生まれながらに善の性質を具有している。(2)もし犯罪に手を染めることがあれば、それは環境という外力により精神に異常をきたした場合である。(3)そして、精神異常者にとって刑罰は犯罪行為を抑止しうるものではない。

という具合である。この論理は私が自身の犯罪行為を顧みた際に、その原因をギャンブル依存症に求めたことに端を発する。当時は言わば現実逃避の手段であったが、一般化して考えていくうちに再犯を未然に防ぐ為に役立つ理論となった。これを3段階に分けて説明していく。

(1) 性善説
 性善説とは、人は先天的に善の性質を具有しているという孟子が唱えた説である。本性が善であるから特別な行いは必要ないということではなく、反対に努力により善の性質を磨き上げ立派になるべしと言うのである。ただし、ここでは性善説を厳密に参考するという訳ではなく、人は行い次第で善悪どちらにも振れる可能性を含有しているというニュアンスの部分を取り上げる。その意味では性悪説を参考にしても差し支えない。
 性善説や性悪説の解説では、人が立派なれるかどうかは“自分”の行いに依拠するというものが多い。しかし犯罪心理について考えると、人が犯罪者になるかどうかは環境つまり“他者”との出会いに依拠する割合が大きいのではないだろうか。この自分と他者の違いが次項の「運命」につながる。

(2) 運命
 人は生まれ落ちる時空を選ぶことはできない。これは運命だ。いかに善の性質を持っていたとしても、生まれてきた環境が犯罪への気運を醸成しやすいものだとしたらどうであろうか。人は育つ環境によって将来において法に触れる可能性を潜在してしまう。生まれてきた尊い命とは無関係な、避ける余地が無い負の外力による悲運である。これは必ずしも劣悪な家庭環境に生まれ育った場合に限らない。平穏な家庭であった場合でも、幼少期における親子関係の些細な歪みがしこりとなって、後に大きな事件に発展することもあるだろう。そのしこりは自分の意識の外で大きくなる。また、罪を犯す可能性が遺伝子レベルで他よりも高い人がいる。例えば、依存症には遺伝的要因もある。依存症の人であればアディクション対象の為にために犯罪に及ぶことがある。
 いずれいせよ人が犯罪に結びときには環境や他者、運命の影響が大きい。そしてそれらは自分の選択権の外にある。素直に性善説に立てば、自分の行いによって運命を打破し精進すべしとなるのだろう。だが至極困難なことだ。なぜならば、運命の渦中にいるうちは生育歴の間違いに気づくことができない。そもそも気づける環境にないし、気づく能力が育まれない。その時が来るとすれば大きな過ちを犯した後になろう。そうして運命に引きずられるうちに善も悪も超越して、精神に異常をきたす。

 犯罪に及ぶ人の精神は、そうでない人の精神と比較すると異常なのである。精神が異常であれば、正常時には思考しないようなことが普通に為される。この点について私は、ギャンブルの為に横領を働いた体験がある。また、うつ状態にあるときに自殺の方法を検索したり、3週間分の処方薬を同時に摂取することによって気持ちを楽にしようとしたことからも実感している。ひとたび精神構造に異常が表れれば、回復は容易ではなく犯罪には走り易い。

(3) 刑法
 刑法には2つの面がある。一つは犯罪に対する抑止力、一般市民を犯罪から守る盾だ。もう一つは犯罪者へ刑罰を科す剣である。しかしながら盾については、善悪の判断能力を持つ者が悪に揺らいでいる際には抑止力たり得るだろうが、相手が精神異常者であれば効果が無い。もう一方の剣についても、刑罰自体には犯罪者を改心させる力は無い。改心するとすれば、それは刑に服している間の出会いによってであろう。仮に私の横領が明るみに出て刑を科されていたとしても、ギャンブル依存症から回復しない限り同様の行為を繰り返していたと断言できる。
 この盾と剣は社会に適合できない精神異常者のラベリングである。すると刑法・刑罰にはもう一つの面が見えてくる。精神異常者という社会的・人間的欠陥品を排除するシステムである。製品の欠陥具合によってリコールしたり、時には廃棄することもある。世の中には刑法や刑罰は不必要だ、とまで言うのは性善説の典型的な誤用である。だが犯罪者の改心という点においては本当に必要なものは、刑法や刑罰ではない。犯罪者や精神異常者が社会からの排除を免れる為には結局のところ、自力で運命を打破し、自力で新たな出会いを選び取るしかない。

4. 結論

 犯罪心理についての私の見解では、人が罪を犯す原因は精神の異常にある。その精神の異常は、自分で選んではない環境や他者の影響による。反面、人を犯罪行為と対極に向かわせるものも環境や他者との出会いである。私の場合、幸いにも他者との出会いには恵まれている。そこに、オードリーと日向坂46、少し粗野に表現すればラジオとアイドルというコンテンツと巡り会えたことが人生の分岐点となった。馬鹿げて聞こえるかもしれないがモノとの出会いも運命なのだ。そしてこの出会いは私が選択したものだと信じている。生まれながらに決まっている運命は確かにあるが、自分が選択したことで決まる運命もあるだろう。
 最後に、このテーマを通じて得た教訓を記す。運命に流され精神に異常をきたすと、立ち直るには相当な時間と苦労を要し、本来であれば無縁であろうトラブルを起こすことになる。そうなる前に、常日頃から自分の心身に気を配り、周囲の人たちの声に耳を傾けなければならない。
 

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